2016年2月4日木曜日

やさしさ格差

最近、兄猿が少しだけ大人になってきたように感じます。
今10才半です。
口数が少し少なくなり、
発言には、少しだけ彼なりの洞察があったり。

最初にこの変化に気付いたのは、彼が、小さな子供のことを「かわいいね」と言い出したときです。
9才までは、幼い子供は、自分の作ったレゴ作品を壊したりする、要注意人物としてしか見ていなかったのに、
ある日、クラスメートの弟を「こんなことして、かわいいんだよ」と話してくれて、ほほー、と思って聞いていました。

最近はまた少しそこから変化があり、なんというか、もう小さくない自分を認識し始め、小さい子たちに、「ぼくも小さかった頃は、こんなんだったんだろうな」という失った自分を投影して、懐かしみ、慈しみ、愛しんでいる、そんな感じです。
というのも、小さい子を見ると、「僕もあんなことしていた?」と聞いてきたり、自分の小さい頃の写真をみて、「げー!」とか、「なにこれ~」と絶叫しつつも、愛しんでいるところから、そう推理した次第で。

従兄弟が素晴らしい写真ソフトを持っていて、こんな加工をしてくれました。
Merci, Renaud!
そして、これって、「僕も、小さかった頃は、こんな風にかわいくて、そして、パパ・ママ、そのほかの大人達が僕をかわいがってくれた」という記憶(写真からの後付け含む)から、「小さい子はかわいがるものだ」みたいな認識が生まれたのかな?と思ったり。

話変わって、先日は、最近転入を経験したお子様を持つママ友に会いました。
新しい学校に、子供たちがすんなり入って行けたそうで、「よかったねぇ~!」と、安堵。
私自身、転校転入でイジメを体験しているし、昨今のメディアで恐ろしいイジメの実態を聞き知っているだけに、ほっとしました。

彼女のところは、近年に二回ほど引っ越しを経験しているのですが、どちらの時も、周囲の子供たちが優しくて、「いっしょに遊ぼう!」と声かけてくれたりで、スムーズに新環境になじめたそう。

そういえば、うちの子猿たちも、パリからこちらに来たとき、近所や学校の子供たちが一緒に遊ぼう、一緒に行こう、と声かけてくれて、その優しさに感謝し、かつ、少し驚いたことを思い出します。

昔は、新しい子供が来ると、興味があっても、素直に「遊ぼう!」と言えなかったり、ちょっといじめてみたり、そんな駆け引きの中から友達を作っていく、という感じでしたが、今はDay 1から、仲良く遊ぼう!と、実にシンプルで直球な子供たちなのです。

そのほかにも、夕方、公園でウォーキングしているときに見かける子供たちが、とっても愛らしく、元気、そして仲良く遊んでいて、のび太君な子もいなければ、ジャイアンもいません。

先述のママ友曰く、「近年、日本でも『体罰はよくない』とか『褒めて育てる』というのがある層には行き渡っていて、その効果として、子供たちの民度が上がっているのではないか。」ということでした。

福祉や子供のカウンセリングに詳しい友人も、
「もしかしたら、子供の貧困層が増え(16%!!)、教育格差とともに、そういった、こどもの優しさにも格差が生まれているのかもね」
と教えてくれました。悲惨らしいです、子供の貧困。やるせない。

やさしさ格差……
「民度」が上がった階層もあれば、放置され、虐待され、飢え、怒りや哀しみに精神を乗っ取られた階層もある。

先ほど、川崎の中1(13才)の少年がむごい殺され方をした事件の裁判についてのニュースで、犯人は、子供のときから、「しつけ」という名の虐待を受けていたというのを読み、ふと、こんな出来事、会話を思い出したのでした。