2015年11月28日土曜日

変わりつつあるフランス


パリ在住の頑張り屋さんの友人が、こんな素敵な3Dカードを作りました。
メッセージは、「立ち上がれ、パリ!」作り方、ダウンロード(無料)はこちらのリンクより。
写真のはby兄猿。ちょっと手を加えたよう)

パリでのテロから二週間経ち、一昨日は政府による追悼式典があったそうですね。


13日以降、たくさんの方々より、義理の家族や友・知人らの安否を気遣ってご連絡頂き、ありがとうございました。幸い、私の周囲で直接的に巻き添えになった人はいませんでした。どうかこの先、三度市民が犠牲になるような惨劇が起こらないように、と強く強く祈っています。

フランスを発った昨年まで、そしてそのあとも、メディアなどから感じるのは、フランスは着実に変わりつつある、大げさに言えば、大きなうねりの中にいるんだな、ということです。

フランス歴が浅く、勉強もしたことない私が何を言うか! と思われるでしょう。でも痛切にそう感じるので、無責任にシェアさせてもらいます。


私がフランスに住み始めたのは、2000年のこと。当時学生だったこともあるでしょうが、それまで住んでいたNYやそのあとに住むロンドンとそんなに違いを認識することなく、思想的傾向を感じませんでした。日本ともそう変わらない、思ったことを自由に言える雰囲気でした。

それから9.11があって、イスラム教に対する注目が高まり、何年後には、公共の場において、顔を隠すタイプのベールや十字架を身に着けることが禁止されるようになり、ライシテ(元の意味はおいておいて、今では政教分離)という言葉を耳にすることが増えました。

そして、2012年に社会党が政権を握る。

このころになると、ライシテが宗教的中立から、宗教色排除という意味合いを強め、ターゲットだろうイスラム教色とともに、フランス文化の基であったカトリック教が否定されていく。元々の宗教離れに拍車かかって空っぽになりつつある倫理・価値観を埋めるべく、代わりに、「共和国精神」が押し出されてきた気がします。

キリスト教では幼児洗礼というのがありますが、今は、わが子に対し、共和国洗礼(Bapteme civil)というのをする人もいると聞きました。果たして共和政というのは信仰の対象なのか

共和国精神って何かというと、フランスにおいては、エガリテ(平等)のことなんだと思います。で、平等というのは、権利の主張なのだと思います。

その一つ、同性愛者達の権利を、更に認めようという動きが活発化しました。同性愛者が結婚して子供を持てないのは不平等だという。

私が「?!」と思ったのは、政府の対応でした。反対派の動きが大きな社会現象となっていたのに、その意見を聞くことなく、「反対派=ホモ・フォービア(同性愛者を否定する人)だ」とレッテルを貼り、「マイノリティーの権利を拒否する悪者」扱いでした。反対派には同性愛者もいたし、もっと違う次元での反対運動だったと理解していたので、政府の扱いは横暴に感じましたっけ。

そして、今では、気の置けない仲間うちでも、誰かが「同性カップルが代理母とか見知らぬ精子を使って子供を作るのはどうかなぁ、と思う」などとぽろっと言うと、「シッ、それ、大きな声では言っちゃだめよ。ホモ・フォービアだって非難されるから」とひそひそ声になります。
……いつから思ったことを声に出してはいけない社会になったのでしょう。
 
同性愛の話に戻ると、今では、小学校や図書館には、同性愛者や性的マイノリティーが主人公の絵本がおいてあります。また性差なき認識を幼い時から身につけさせようと、小学校からジェンダー教育をすることにしました。
性のことって、よほどデリケートに話さないと、グロテスクだったり、混乱させてしまうだろうに、大丈夫なのかしら。

「性」がアンバランスなほどに強調されている昨今のように感じます。

もう貴方のことは語られないようですよ
教育に関しては、中高でも来年から改革があり、こちらも「エガリテ」が発端です。
フランスは階層社会。それが故に教育格差があり、それをなくそう、ということらしい。
色々論争を引き起こしているこの教育改革、学ぶ分量を軽減しよう、ということなのでしょうか、歴史に関しては中世はあまり触れず、革命(18世紀の)以降に重点を置くらしい。ここでも宗教が中心だった時代は飛ばして、「共和国」精神に焦点ということかな。

この教育改革は全体的に、「子供の教育は国がするから、家庭は黙ってて」、という風に感じないこともない。社会が個人を面倒見るというのが社会主義、ってか。そもそも、社会党の中枢にいる人たちは、そのサークル内で「自由」に恋愛・別れを繰り返していて、家庭・家族という概念を持っていなさそう。

今のフランスは、社会主義のイデオロギーを国民に押し付けていて、それに賛同できない人は、以前ほど自由に思ったことが言えない気がするのです。以前の政権までは、左寄りの人も、そうでない人も、好き勝手発言できたと思う。

そこに、不景気が深刻化している。現政権になってから失業率は10%超となっています。
プラス、テロの恐怖。この度のテロのあと、前回同様、フランソワ・オランド大統領の支持率が上がった(22→32%)そうですが、フランスが変な方向に引っ張られないといいな、と願っています。テロ襲撃後のオランド大統領の演説に9.11後のブッシュ前大統領を重ねた人は私だけではないはず。

まとめますと、
現代フランスの、錯綜していた思考・志向・嗜好が、オランド大統領以来、見えない引力により、怪しくまとまりつつあって、気づくと、2010年までのフランスと、2020年のフランスは違う国となっていそう、そんな気がするのです。どうか、そんなことがありませぬよう……。

2015年11月4日水曜日

パラドックスの国

船から見た黒部湖
皆様、お元気でしょうか。

もう「ご無沙汰です」が枕詞になりそうな、最近のエトランゼ・ブログ。更新頻度が落ちています。

これって老化の一つなのか、それとも子育て佳境の忙しさが理由なのか、ブログを書くだけの集中力と時間が中々持てずにいます。

また、スマホとフェースブックのタイアップというのも理由の一つというのはあるでしょう。
何か感動した場面を、スマホでカシャッと撮り、旬の気持ちを友達に伝えたいからって、その場でフェースブックにアップロードすると、自己発信が完了してしまい、あとで、あのときに気持ちをブログにて文章で表そう、という必要性が失せてしまうのです。

それでも、フェースブックにはフィットしない「あのときの気持ち」というのは、ポロッポロッと転がっていて、今日はそれらから、明るい気持ちになるものを一つ、と思っていたのですが、ちょっとネガティブなものを選んでしまいました。
もう一度!今度はダムから見た黒部湖
愛読誌の一つ、英「Economist」誌に、「消えつつある日本の仏寺」という小さな記事が目に留まりました。何やら、推計によると2040年までに、現在7万7000ある寺のうち40%が廃寺となってしまうだろうということです。

この記事を読んで、最近うっすらと思っていたことを再度思い起こしました。

一つは、日本の教育は短所も多いけれど、私の時代の地理や歴史教育は悪くなかった、と思ったこと。小学校から世界の地理や歴史に触れ始め、高校では世界史も選択できる。

先進国では皆こんな感じで世界を学んでいると思っていたけれど、どうやら違うらしいですね?

私同様アラフィフの夫曰く、少なくとも彼の時代、フランスでは世界史など丸っきり学ばなかったそうです。遠いアジアの中国の歴史などは、大学で興味があれば専攻して学ぶことができるけれど、中高ではタッチすらしなかったらしい。
道理で、日本が香港の中にあって、という恐ろしい理解をしている人に遭遇したりするわけで。

アメリカや中国などの大国もきっと似たようなものでしょう。

夫や外国の友達と話していて、ある文明や遠い小国についての話になったとき、うっすら(この、何でも「うっすら」というのが我ながら残念なんですが!)と分かり話についていけるのは、この学校での教育のお陰。
メソポタミアでも、殷朝のことでも、ロマノフ家の話でも「うっすら」とは分かる。
この点では、日本の文化度は意外と高いんだな、と思ったのです。
しつこくもう一度。圧倒的な黒部湖でした。
二つ目は、日本人って好奇心が旺盛ですよね! 新しい食べ物、新しい芸術、ファッション、何でも興味津々。美術館に行けばルーブルやオルセーでは見られない混雑だし。世界のニュースにもアンテナ張っている。ここでも文化度高いな、と感心すべきなのですが、何だか享楽的な感じもする。「知りたい知りたい」と無遠慮な感じがするというか。でも、とにかく好奇心旺盛です、日本人。

でも、です。
これだけ、世界の歴史、文明に理解があって、興味もある。それなのに、知恵深い賢者という感じはしない。自分と直接関係がなさそうな国での悲劇には薄情だし。

日本にて働く友人が、会社でネバールだか、どこかの災害への募金を募ったら、全額で二千円程度しか集まらなかったとショックを受けていました

東北震災のときはさすがに動いたけれど、たとえ国内での災害でも、そんなに助けよう!という気概はない。

近所のセブンイレブンで、この秋の水害被災者への献金が「千八百何とか円でした、ご協力ありがとうございました!」と貼り紙してあるの見て、愕然としました。

教会できっと余り裕福ではないだろうフィリピン人たちが、献金のかごにお札を入れているのを見る度に、昔、ロンドンの教会で「入れなくてもいいんでしょ?」とささやきつつ献金かごをスルーしていた日本人観光客を思い出します。

そして、こんな記事をBlogosというサイトで見つけてしまいました。タイトルは世界で最も他人に冷たい先進国、日本」。世界寄付指数というものに関する記事です。(11月11日追記)
こちらは蓼科
そしで初めに戻ると、寺がなくなっているという話も、やっぱりねぇ、と思いました。

日本は、神々を信じる信心深い国、というのを時折聞きますが、ホント?ってかねがね疑問に思っているので、びっくりするというよりは、やっぱりねぇ、だったのです。

先日、夫と近くの公園に散歩に行ったとき、教会でよく見ける初老の外国人より話しかけられました。自然と話は教会のことになり、すると、その近くにいらした日本人の初老と呼ぶには早いけれど、お孫さんの話をされたから、まぁ初老の方が話に加わってきて、「僕の孫はその教会の幼稚園に通ってます」ということでした。それで、初老外国人の方が、「貴方もカトリックですか」と聞くと、「ノーノー、アイ アム ブッディスト」と応えられる。

それを聞きながら、心の中で「「ほんとう~?本当に仏教を信仰してますか?そう思っているだけで、本当は仏教のことあまり知らなかったりしませんか?」と疑っていました。
仏教の教義、すぐに言える人って日本の人口の何割でしょう。悟りを開く、と言うほかに、それが何を意味するかとか、整頓して理解している人、少ないのでは。

このオジサンのように、面と向かって「信仰は」と聞かれれば、慌てて「ぶ、仏教です」とか「し、神道です」と応える人、多いと思うけれど、深く理解も、ましてや信仰なんてしていない。
そもそも、心底困ったときや、混乱して何か落ち着きたいとき、救いを求めたいとき、お寺や神社に行こう、って思いつく人、少ないような気がする。

フランスも宗教離れが加速していますが、宗教の教えは日本の仏教・神道よりは浸透していると思う。キリスト教に関して言えば、日曜学校などで子供の頃から宗教教育を受けている人は結構いるし、ミサに行くのはイースターとクリスマスだけの人でも、教会の存在を頭の片隅に入れている人の数は、未だに人口の大きなひとかたまりとして残っていると思います。ちなみに、フランスは約10万の教会があり、うち閉じる・壊す危機にあるのは、300前後のようですから、日本のお寺よりずっとマシな状況です。



……と徒然に書きましたが、少しまとめると、日本には逆説が沢山あるなぁ、というのが最近よく思うことなのです。例えば、

・ 日本は仏教大国と言うことになっているけれど、寺院の数も世界でも桁違いに多いらしいけれど、仏教も神道も人の心の中では希薄。

・ 海外に対する知識・興味は高いけれど、Empathy(共感、感情移入)は薄く、「グローバル・シチズン世界市民」的な姿勢は伺えない

・ 勤勉なのも本当だけど、享楽的(……明日の、未来の活力を生むために今日を楽しもう、皆で楽しもう、というよりは、「今だけでも楽しもう」「もう人のことは知らんわ、楽しませて貰いまひょ」みたいな開き直った感じがする。)

・ 礼節を重んじ、自制的な国民性ではあるけれど、その出所は、必ずしや宗教や高い倫理観から来るものではない。(社会の縛り、義理、建前…)

・ 団体行動型だけど、自主的、献身的に協調し、そうしているのではない。(しょうがないからやる、浮かない程度に協力する)

……なんて、もちろん、十把一絡げに言ってるだけで、個人ベースでは「感動の人格」に囲まれている幸せ者のワタクシです。
ニュースやふと見かけた街角の光景などから感じた、批判すべき日本、を書いてみただけで、肯定すべき日本も沢山体験していますので、ご安心を~!



ネガティブなことばかり書いてしまったので、先月訪れた長野で撮った紅葉の写真を散りばめておきました。

それはそれはきれいな景色ばかりで、清少納言シリーズ(といって分かる方はエトランゼ・オタク)でいくと、
「日本は自然」。
日本の美しさは、文化でも人でも、寺でもない。自然にあると確信した旅でした。
どうか、いつまでも「山河あり」の日本でありますように。

どうぞよい一週間を~。