2014年4月25日金曜日

満ちて来るのは何?

野生のオーキッド
一昨夜、今度はサルト地方よりパリに戻ってきました。
先週のブルターニュを加えると延べ一週間の義理両親との滞在は、若干の山も谷もありましたが、夫の仕事の都合で、急遽予定より早く滞在を切り上げることになったのはよかった。
ちょっと「腹八分目」くらいででバカンスを終了する方がいいものよね。これくらいの方が、私もココロが後でガザガサにならないし、みんな再会が楽し待ち遠しくなるってもの。(ホント~?)
野原はパクレット(この白い小花)で緑と白の絨毯みたいでしょ?
パリに向かって出発したのは夜8時過ぎでした。
春分の日以来、フランスの陽はずんずん伸びていて、8時過ぎてもまだ夕暮れ。日没寸前の、田園の緑が冷んやりとした蒼い空気に包まれていて、自然と落ち着いた気持ちになれるひと時です。
こんなときは、会話よりも、静かにしていること一番自然。
車の中、子猿たちも窓の外を見ながら、珍しく一言も発しません。

そんな中、私はさっき読み終わった、井上靖の「満ちて来る潮」について考えていました。
井上靖は歴史小説や自伝的小説で知られていますが、結構な量の現代モノも書いている。その一つがこの「満ちて来る潮」。

この要約が合っているとも思わないのですが、あらすじはこのリンクをご参照ください。

リンクに行くのがメンドクサイ方のために、この500ページ近い長編を超短くまとめると……

背景は高度成長期の50年代後半。
ゆとりある中流階級で育った美しい苑子は、見合い結婚で開業医の妻として暮らしているが、何か満ち足りないものを感じている。そんなとき、偶然知り合ったダム建設に情熱を燃やす紺野と道ならぬ恋に落ちるが、紺野が最後になって躊躇し、別れることに……。苑子は絶望して自殺未遂を図る。ラストシーンでは一命を取り留めた苑子が意識を取り戻す中、自分の中に潮が満ちてくるのを実感して終わる。

初めて読んだときは、「なんだ、不倫の話か」と思ったのですが、今回読み直してみて、もっと深い話だと思いました。

苑子という女性は「目覚める」機会なく大人になったが、持って生まれた知性のせいか、何かが違う、と直感的に感じている、まだ自分の人生を歩んでいない、と知っている。
それが紺野に恋することで、目覚め、別れることで、絶望を知り、「この悲しみは私だけのもの。誰も知らない、わからない」と考えるうちに、底知れない「孤独」というものを知った。それで、ついつい、死ぬという道に誘われたが、意識を取り戻す。

「孤独」を知ったことで、初めて「生きる」ことが可能になる、これから苑子は本当の意味で自分の人生を生きることになる……そういう風に解釈したのです。

読み終わったときは、ラストシーンの「苑子は自分の中に潮が満ちてくるのを感じて涙流す」というくだりが、苑子がこれから充実した人生を始めることを表しているのか、逆に人生の意味を悟って死ぬということなのか、わかりませんでしたが、車が薄暗い緑のトンネルをくぐる中、ふと、パズルの最後のピースをはめ込んだ時のように、全てが見えたのでした。

井上靖の小説全てに通じるのはこの「孤独」だと思います。
「孤独を背負って生きるのが人の宿命ならば、めそめそせずに、爽やかに、厳格に、ときには繊細に生きようぞ」
という、そんなヒーロー、ヒロインの生きざまストーリを聴かせてくれる作家さんだったのだと思います。

……すごーくどうでもいいことですが、この手の精神的自立を歌ったと思われる、ホィットニー・ヒューストンの「The Greatest Love of all」、大学生の時に何回も聴いたナ。
この歌を見事に歌い上げた彼女が薄倖な死を迎えたことは何という残酷な現実なのでしょうネ。


イースターを祝うテーブルセッティング、by義母
義母のイースターに関して、伯爵夫人のマナーブックにアップしています。

こんな風に、自由に想いを巡らせていると、「そういえば」と自分のことを思い出します。

初めて、「人って一人なんだぁ」と認識したのは、思春期たけなわの頃でした。
ある午後、家で窓をみながら、突然、そんなことに気付いたのです。
別に本を読んでいたわけでも、引き金になる事件があったわけでもないのですがね。
ふと、
「……ってことはサ、人って『一人』なんじゃん。親がいても、結婚したとしても詰まるところは一人なんだ」って気づいて、知らぬ間に涙がぽろぽろ流れ落ちていました。

きっと何かのコンテクストがあって、こういう結論にふっ、と辿り着いたのだと思うけれど、残念ながら詳細は思い出せません。

そのあと……
これが私のいいところでも悪いところでもあるのですが、あんまりこのことを考えていると身体によくない、と思って(たぶん、メンドクサカッタのだと思う)突然、考えるのをやめました。その先に、まだ解かなくてはならない問題があるように思えなかった、というのも理由の一つです。
これが私が哲学者ではなく、一介の読書好きの主婦である所以なのでしょう。

その後、大学生になり、CAになった20代は、折角「一人なんだ」という事実に気づいたのに、残念なことに「颯爽と生きる」ことなく、逆に孤独病というか、さびしん坊に憑りつかれました。
これが結婚願望というのに繋がって、若い身空で生涯の伴侶を求めたという……。
折角気の合うボーイフレンドができても、「この人とは生涯を共にできないと思う」という、ホント、良く分からない理由で別れたり。

若かったんだから、もっと自由な気持ちでたくさん恋愛すればよかったな~。
今の私は、家族ができて、孤独の意味を忘れかけている。
「ちょっとだらしないじゃなかいか、君!」
ってね、井上靖読むたびに喝を入れてもらってる感じ
……などと、どうでもいいこと考えて、ふと我に返ると、車の中では、ちび猿は既に後部座席で眠りに落ちていました。兄猿は退屈してきたよう。音楽を所望しましたが、夫は聞こえないふりをしていました。

もうすこしだけ、静かにしてよっか。

道も空いてたし、気持ちのよいバカンスの終わりでした。
今年のイースターチョコは、George Larnicolの
カリメロもどき。子猿たちは頭をガブリ。

遅まきながら、Joyeuses Paques!








2014年4月17日木曜日

モンパルナス駅のストリート・ピアノ

ブルターニュより戻りました。
先週、子猿2匹とその従兄弟1人を連れて、パリのモンパルナス駅よりTGVに乗って行ったのですよ。義理の両親とまったりの数日。やっぱり難しい人たちだわ、と再々々…確認でした。ま、それはいいか。

ところで、このモンパルナス駅のTGV待合エリアに、ちょっと前よりアップライトのピアノが置かれるようになったのは報告しましたっけ。
製造元は世界に誇るKAWAI。ふんふんふん、と同国企業の文化的貢献に少し誇らしくなってしまう。
出発までの時間つぶしに、音楽でもどうぞ、という粋な計らいです。

どんな感じかと言うと、こんな感じ・画像はコチラを見てみてください。

ブルターニュに向かった日も、中年のムシュウがジャズ風のメロディを奏でていました。音楽音痴の母猿には、ものすごく上手に聴こえますので、ピアノを習っている子猿+1を呼び寄せます。兄猿が興味津々な様子。

もう一人、アラブ系とみられる太っちょの少年も食い入るように聴いています。12歳くらいかなぁ。

ムシュウが一休みすると、「Bravo!」と拍手喝采です。本当に素晴らしかった。

そしてこの太っちょ少年が、これはチャンスと乗り出します。ムシューが「お、弾いてみるか?」と席を譲ります。

坊主、何弾くんだろう、と余り関心なく待っていると、これがすごかった。兄猿曰く、モーツァルトらしいけれど私は知らない、よく聴くメロディですごくテンポが速い曲を、びっくりの巧さで弾くのですよ。指の動きも美しくって、もう感激でした。

それまでは兄猿が少し弾きたそうなのは感じていたけれど、こんなに上手なお兄ちゃんのあとじゃぁね。

と思っていたら、お兄ちゃんが終わって、皆よりブラボーの喝采を受けているときに、
「ママ、リュック持って」
と荷物を降ろし、自らピアノに向かったのです。

兄猿、6月の発表会向けに、先生が苦労して探してくださったモーツァルトのピアノ・コンツェルト8番https://www.youtube.com/watch?v=OsyFo5zMgT4を子供用にシンプル化したものを弾かせていただけることになっていて、モーツァルトが大好きな兄猿はこのところ、暇があれば練習していました。 

うちの中古落ちの電子ピアノで練習しているし、まだ幼いので指の力が弱くて良く聴こえなかったけれど、そして「弾く」というテクニックだけに集中した表現性のない空っぽの音だったけれど、兄猿は弾いた!
お優しい観衆の方々は「ブラボー!」って拍手してくださって、兄猿ったらお辞儀もせずに恥ずかしそうに戻ってきて、「ちょっとTimid(小心)だったから巧く弾けなかった」と言い訳しながらも、嬉しそう。
ピンボケでゴメンナサイ!
なにが「小心」ですかね。とっても巧い大人と子供の後に、図々しく名乗りを上げるなんて、大胆不敵じゃない、ねぇ? 

兄猿としては、「僕だって弾ける」という、実力が見えてない故の虚栄心、「ピアノがあるなら弾きたい」という純心さ、「きれいな曲だから皆も聴きたいだろう」という自分中心ながらも少しだけ善意もある思考、「皆の前で弾いてみたい」という大胆不敵なパフォーマンス欲、などなどが混ざっていたのでしょうか。

兄猿の知らない一面、ふてぶてしさともいえるし、積極的ともいえる一面に遭遇して、びっくりした母猿でした。ちなみにちび猿からは「よくやった」と労われていてこれも笑えた。
でも、ほんとほんと、よくやったよ。

彼の後、やはりアラブ系の若者が素晴らしい腕前を披露してくださって、そのあとで先ほどの中年ムシュウと即興で連弾をすることに……。人間の指があんなに鍵盤の上を踊る、協和することに、音楽が乗り移ったかのように次々とメロディーとリズムを生み出す、その創造性に感動してしまいました。
すごいよね、人間って。

あぁ、それにしても驚いた驚いた、兄猿には、の巻でした。

2014年4月14日月曜日

ありのままでいいじゃん

今週末より、パリは春休みに入りました。
間にはイースターもあるし、今後2週間は子猿サービスに励むことになりそうです。

休み前の最後の一人時間、と楽しみにしていた金曜日には、ぞっとすることがありました。
私の個人メールより、多くの人に迷惑メールが送られてしまったのです。
「For your review」という件名のメールが私より行っているようでしたら、大変申し訳ございません、すぐに削除し、念のためにメルアドをパスワードも変更してください。

特に、変なウエブサイトに行ったり、変なメールを受け取った覚えもなかったのに、このような被害・加害してしまって、ネットワールドの恐ろしさを認識することになりました。

気を取り直して、昨日土曜日は近所散策を。
先月からのハウス・ハンティング(転勤することになったのでしばらく保留です)で見かけた公園に行ってみました。うちから車で10分ほど行ったところなのですが、これが素晴らしい公園だったのです。Parc de Boulogne Edmond Rothschildという公園、カメラを持っていかなかったので、このリンクをクリックしてみてみてください。
いつかこの辺りに住んで、朝靄のなか散歩したり、少し大きくなった子猿たちが本(マンガの可能性高)を持って、一人になりに来たり、なんていいなぁ、って想像しちゃいました。

それしても自分は歳とってきたなぁと思う今日この頃です。
こんなに緑を求めるようになるなんて、若いころは思いもしませんでした。元々都会にこだわっていたわけではありませんが、便利さを優先して選んできた結果、都会ばかりに住んできました。

れが今は少し不便になったとしても緑が多いところに行きたいと思うようになってきた。きっと私は前世は森に住んでいた動物だったのかも。昔から森とか深緑の木々を想うと落ち着くところがありましたから。

歳と言えば、食べ物の趣向も変わりました。健康嗜好ということ以前に、白米よりも雑穀米がおいしく感じられ、あっまいお菓子よりも、柔らかな甘味を好むようになり、ビールや発泡酒よりも、ワインなどが好きになり、ワインも、どっしりとしたボルドーより、軽めの、ブルゴーニュ(ものによりますが)やシノンの方を選ぶようになりました。コーヒーの量も減ったなぁ、そういえば。

洋服も、もう無理してピチピチのジーンズやハイヒールなぞ、履こうとも思わない。肌に優しくて楽な服ばかり着ています。

こんな自分の変化が嬉しいです。若い頃の様々な呪縛……人の評価に縛られるとか、本当よりきれいに見せたいとか、本当の食欲なのかも分からないものを抑えるとか、流行りに遅れたくないとか、ブランド物欲しいとか、そういう「ストレス要因」から解放されつつあることが嬉しいのです。
ありのままでいいじゃん、それしかできないし、って自然に思えるようになってきたのです。

今、自分の将来を想像すると、私はぼうぼうと草茂る庭で破けかけた麦わら帽子を被ったおばあさんです。そして願わくば、年取ったときには、うちの母のように、前向きでかわいくてこざっぱりした性格のおばあさんでありたい。

そんなことを考えた週末でしたから、結構のんびり過ごしたようです。

さて明日からの一週間、頑張りましょうね!


ご無沙汰してしまったコンテスのマナーブック。

今回は旬な話題ということでコンテス的イースターの過ごし方について書いております。イラストは毎度お世話にになっておりまKenichi Ogawa画伯!
お時間あるときにでも覘いてみてくださいませ。

PS.ちょっとネタ切れでもあり。こんなマナーや仕来りについて知りたい!
というのがありましたらどしどしご要望をくださいまし。

「伯爵夫人のマナーブック 第15回 コンテスの復活祭」
http://www.newsdigest.fr/newsfr/colonne/madame-est-servie.html

2014年4月7日月曜日

本の役割

4月より、パートが終わったので、以前より書き溜めていた小説もどきに筆を入れようとコンピューターに向かっていました。
が、どうもイマイチ進まない。
今向き合っているのは、子猿たち向けに書いた児童書です。
表紙の予定画(by子猿たち)
初めは「子猿たちだけが観てくれればいい」と思っていたのが、製本してみよう、と思い、どうせ50冊くらいが最低ロットならば、お友達のお子さんなどにも配りたいな、と欲を出し、ちょっとそこら辺を意識して書き直しているのです。 

一方、うちの子猿たちは本を読まなくて困ってました。

Tintinやドラえもんは読む(見てる?)けれど、文字だけの本は開かない。
本好きになってもらいたくで、本を読み聞かせていたら(夫に丸投げしてます)、ある種逆効果というか、怠け癖がついたようで、自分では読まなくなってたのです。
それが、最近になって、兄猿がついにハリーポッター1巻を読破しました。これも半分くらいは夫が毎晩何ページも読み聞かせてエンジンをかけ、という努力の賜物なのでした。 

兄猿すら読む気になったハリポタ。どれ私も、ハリーポッターを再読し、秘訣のようなものを学ぼうと、日本語版を子猿たちが通う日本語補習校の図書館にて借り、週末は時間が許す限り読んでみました。 昔読んだことはあるのです。ただ、あんまり良さが分からなかったのです。ちょっと疲れちゃうというか。

でも違う観点で読むとやっぱりすごいですね。

テンポが良いし、なにより1文章の中に、何か子供が興味を持ちそうなこと(変な名前だったり、音だったり、魔法だったり、意地悪だったり)があって、子供の興味を引き付け続ける。これはシャポーです。 
クリスマスにロンドンで見た子供向けのミュージカル、「マチルダ」を思い出しました。 

私はこんなにテンション高いと疲れちゃうんだけど、子供はこれ位じゃないとダメかもね。真似できることはしようと思ったけれど、無理だな。 

ところで、このハリポタを借りた図書館には大変お世話になっています。私の人生でこんなに和書を読み込んだのは、かつて図書館の隣に住んでいた20代の頃以来のこと。パリにてこれができたのも、この図書館のお蔭です。本当に感謝しています。


司書の方は新書が入ると教えて下さる。春だからでしょうか、先々週は10冊近くも入荷されていました。 

何冊か借りた中に、2冊ほど、東北震災の本がありました。3年経って、ようやく逃げずに、手に取ろうと思えるようになったんだな、と自己発見です。きっと書く方、出版される方も、3年経って、書く気、出す気になったのかも、ですね。 

1冊は、犠牲者のご遺体を「復元する」方の話でした。ご自身もそうですが、貴い心を持っている人々がたくさんいることを知って、頭が下がる思いでした。

もう1冊も、犠牲者の方の哀しみを身近に感じる内容の本。あらためて犠牲者の方の鎮魂を祈り、残された方たちの心が慰められることを祈るばかりです。また、何十年か前にも大津波が来た土地に原発を建てたことに激しい怒りを感じました。

この本はフィクションで、「え、これはないでしょ」、と思う箇所もあったものの、全体としては臨場感があり、津波が来たときの状況や家族が亡くなったときの心の動きなども想像させられて、「本の役割ってこういうことだよね、伝えることだよね」と再認識しました。
本によって、同情、共感、気持ちを読み取ろうとする、そういう「心の土壌」が耕されるのだと思う。震災の本、子猿たちにも、逃げずに読んでもらいたいな、と思いました。 

さてさて、週末に夫と話する中で、7月に引っ越ししようと思っていたのを、何と来月初旬にやっちゃおう、ということになり、これからしばらくバタバタします。もし余りブログのアップがなかったとしても、心配しないでください。軍手に鉢巻で梱包しているだけですから。 

ではでは、よい一週間を!